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'''佐々木 主浩'''(ささき かづひろ、[[1968年]][[2月22日]] - )は、[[宮城県]][[仙台市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]、[[タレント]]、[[馬主]]。
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<nowiki>'''佐々木 主浩'''(ささき かづひろ、[[1968年]][[2月22日]] - )は、[[宮城県]][[仙台市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]、[[タレント]]、[[馬主]]。
  
 
[[リリーフ|抑え投手]]として一時代を築き、日本では「(ハマの)'''大魔神'''」、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]では「'''KAZU'''」の異名で知られた。日本人選手として最多となる、日米通算381セーブを記録している。
 
[[リリーフ|抑え投手]]として一時代を築き、日本では「(ハマの)'''大魔神'''」、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]では「'''KAZU'''」の異名で知られた。日本人選手として最多となる、日米通算381セーブを記録している。

2020年1月8日 (水) 03:56時点における版

'''佐々木 主浩'''(ささき かづひろ、[[1968年]][[2月22日]] - )は、[[宮城県]][[仙台市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]]・[[野球評論家]]、[[タレント]]、[[馬主]]。 [[リリーフ|抑え投手]]として一時代を築き、日本では「(ハマの)'''大魔神'''」、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]では「'''KAZU'''」の異名で知られた。日本人選手として最多となる、日米通算381セーブを記録している。 == 来歴 == === アマチュア時代 === 宮城県仙台市に生まれ、小学2年の時に[[泉市]](現在の仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]])へ転校する。小学4年の時に地元の少年野球チーム「将監アタックス」で野球を始めた。4番、ピッチャーを務め、のびのび野球を通じて野球の楽しさを体感した。[[仙台市立将監中学校|泉市立将監中学校]]では野球部に所属し、エースピッチャーがいたため主に野手として試合に出場。[[竹田利秋]]監督のスカウトがきっかけとなり、反対する周囲を説得して[[東北高等学校|東北高校]]に進学した。 東北高校では2年の夏からエースとして3季連続[[日本の高校野球|甲子園大会]]に出場し、3年の春夏はベスト8に進出した。東北高校の同級生、チームメートに元[[阪神タイガース|阪神]]の[[葛西稔]]がいる(佐々木は葛西を「みーくん」と呼んでいたという)。また高校時代に親しかった同級生の2つ年下の弟には[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]がおり、昔からの顔見知りであった。斎藤とは高校・大学・日本プロ野球で同じチームに属することとなった。 高校卒業後は東京の大学へ進学することも考えたが、東京で遊びに走ることを憂慮した竹田監督の勧めで地元の[[東北福祉大学]]へ進学した。東北福祉大学時代は[[全日本大学野球選手権大会]]で2度準優勝(2年・3年)している。大学在学中には高校野球の指導者になるため。 === 大洋・横浜時代 === [[1989年]]の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]が1位指名で交渉権を獲得。大学時代は故障続きで腰の手術を受けたこともあってプロ入りに前向きではなかったが、球団から説得され入団。契約金は6000万円、年俸は600万円(金額は推定)。背番号22は2月22日午後2時22分生まれに由来するといわれ、ルーキーイヤーの春季キャンプを扱ったスポーツニュースでは「平成2年2月22日に22歳の誕生日を迎えた背番号22の佐々木投手」という特集も組まれたこともある。また市外局番の「022…」が[[宮城県]]に割り振られていることにも言及し、「宮城県出身の私にとってもうれしい」と自著で触れている。以後日米のキャリアを通じて背番号22を付け続けた。佐々木の活躍以降、背番号22はクローザーを務める選手に与えられることも多くなり、[[阪神タイガース|阪神]]の[[藤川球児]]は同じ背番号を着けることになった際「佐々木さんと[[高津臣吾|高津]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])さんと同じ背番号で光栄」と語った。 入団当時の監督・[[須藤豊]]は「チームで最もいい投手が[[リリーフ|抑え]]を務めるべきである」という考えから[[遠藤一彦]]を抑えに起用していたため、2年目の[[1991年]]シーズン序盤までは先発で起用されることもあったが、遠藤の故障離脱により抑えに定着。速球と落差のある[[フォークボール]]を武器に高い奪三振率を記録。1991年8月28日の対[[広島東洋カープ|広島]]戦の9回、見逃し5球、空振り4球、ファウル無しの「三者連続3球三振」を達成。 [[1992年]]、初タイトルである[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]に輝く。この年、中継ぎの[[盛田幸妃]]から佐々木への継投リレーが確立された。その後2年間は故障もあって低迷するが、[[1995年]]から[[1998年]]の4年連続で最優秀救援投手賞を獲得。この間、[[サンケイスポーツ]]の巨人担当記者が佐々木を(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」と表現。また、佐々木の風貌が[[大映]]の劇中のキャラクター、「[[大魔神]]」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名が定着する。 [[1996年]]のシーズンオフ、球団が[[有働克也|有働勝次]]を解雇したことに怒り、メジャー・リーグ移籍を示唆する。また自主トレーニング先の[[サイパン島]]で不祥事を起こすといったこともあったが、[[1997年]]はこれらの雑音を封印するかのように奮起し、シーズン無敗、防御率0点台の活躍を見せ、チームの2位躍進に貢献。特にチームが急上昇した8月はプロ野球記録となる月間14セーブを挙げている。翌1998年には7月6日に(1996年8月31日以来の)675日ぶりの敗戦を記録するも、登板数51試合、30セーブ以上挙げた投手の中でも歴代トップの防御率0.64という安定感ある成績を残し、史上初の40セーブ越えであり当時プロ野球記録となる45セーブ(当時公式記録の46セーブポイントも日本記録)を挙げ、横浜の優勝に大きく貢献した。10月8日のリーグ優勝を決めた試合にも抑えで登板し、自らこの試合を「ベストゲーム」としている。この年はシーズンのセーブ、セーブポイント数の日本記録に加え、6月4日の巨人戦で[[鹿取義隆]]を抜いて通算217セーブポイントの日本新記録(当時)、6月17日の阪神戦で17試合連続セーブの日本新記録、6月30日の広島戦で22試合連続セーブポイントの日本新記録、8月5日の阪神戦で[[江夏豊]]を抜いて通算194セーブの日本新記録(当時)、8月7日の広島戦でプロ野球史上初の2年連続30セーブを達成するなど、日本記録ラッシュが続いた。9月19日、横浜の優勝を祈願する目的で[[横浜駅]]東口の地下街[[横浜ポルタ|ポルタ]]内に「ハマの大魔神社」が設置され、佐々木のフォークボールの握りを再現したブロンズ像が「ご神体」として置かれ、翌[[1999年]]1月17日に撤去されるまでの間に約1,660万円のお賽銭が集まった。シーズンオフには[[最優秀選手 (野球)|MVP]]をはじめ、[[正力松太郎賞]]、[[日本プロスポーツ大賞]]を受賞。また「ハマの大魔神」はこの年の[[新語・流行語大賞]]を受賞した。 1999年に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を取得し、メジャー移籍が可能になる。シーズン中に故障し戦線を離脱するが、シーズン中にもかかわらず手術を受けたことに対して球団は不信感を持ち、佐々木も移籍を匂わせるような発言をした。オフにはFA権を行使。[[トニー・アタナシオ]]を代理人とし、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[シアトル・マリナーズ]]と総額1200万ドル+出来高の3年契約(4年目は年俸500万ドルの球団オプション)を結ぶ。メジャー移籍後、横浜球団が背番号22を他の選手に渡したのは、佐々木の行動に対する失望や不信感からだとされている。当時のマリナーズ筆頭オーナーであった[[任天堂]]の[[山内溥]]は「メジャーリーグの[[ピカチュウ]]になってほしい」とコメントした。 === マリナーズ時代 === [[2000年]]は[[スプリングトレーニング]]で[[ホセ・メサ]]とクローザーの座を争い、開幕5日前の3月30日にクローザーに指名される。4月5日の[[ボストン・レッドソックス]]戦でメジャー初登板。この時[[セーフコフィールド]]の電光掲示板には「ようこそマリナーズ 大魔神」という日本語の電光文字と共に“DIAMAJIN”と文字が逆に表示されるハプニングもあった。しかし5月10日の[[テキサス・レンジャーズ]]戦で[[デビッド・セギー]]に(1991年に[[落合博満]]に打たれて以来となる)サヨナラ本塁打を浴び、12日の[[オークランド・アスレチックス]]戦でも[[マット・ステアーズ]]にサヨナラ本塁打を浴びて中継ぎに降格。しかしその後クローザーを務めたホセ・メサも23日の[[ボルチモア・オリオールズ]]戦でサヨナラ本塁打を浴びたため、再びクローザーとして起用される。6月6日の[[コロラド・ロッキーズ]]戦では[[村上雅則]]と[[長谷川滋利]]に並ぶ日本人最多タイの9セーブ目を記録し、12日の[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]戦で日本人最多の10セーブ目を挙げた。[[2000年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されることはなかったが、出場選手全員のサインがされた佐々木のユニフォームを[[アレックス・ロドリゲス]]から貰い、「一生の宝物です」とコメントした。 ポストシーズンでは4試合に登板し無失点の投球で3セーブを挙げたが、チームは[[ニューヨーク・ヤンキース]]との[[2000年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]で敗退した。レギュラーシーズンでは最終的にリリーフ投手中リーグ1位の奪三振率11.20、同6位のWHIP1.16の投球でメジャー新人記録の37セーブ([[2010年]]に[[ネフタリ・フェリス]]が40セーブを挙げ更新)を挙げ、[[アメリカンリーグ]][[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人王]]に選ばれた。 [[2001年]]は4月16日の[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|アナハイム・エンゼルス]]戦では自己最速となる96mph(約154km/h)を記録するなど好調なスタートを切り、4月のメジャー最多記録となる月間13セーブを挙げる。5月29日のオリオールズ戦では1994年に[[リー・スミス]]が達成したチーム46試合目に次ぐ史上2位のチーム50試合目での20セーブ到達を達成し、5月終了時点で21セーブと最多セーブは確実と見られていた。しかし、7月2日に29セーブ目を挙げて以降はセーブ機会が減り、[[2001年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されセーブを記録した他、8月2日の[[デトロイト・タイガース]]戦で日米通算300セーブを、翌日の[[クリーブランド・インディアンス]]戦でメジャー2年目での[[アメリカンリーグ]]全チームからのセーブを、8月18日の[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦で当時の球団新記録となる38セーブをそれぞれ達成するも、終盤には右大腿を痛め調子を崩し[[マリアノ・リベラ]]に5セーブ差のリーグ2位に終わった。レギュラーシーズン最終登板となった10月6日のレンジャーズ戦ではMLBタイ記録となるチーム116勝目を45セーブ目で飾り、「こんな試合を締めくくれたのは光栄です」と語った。 ポストシーズンでは4試合の登板で[[奪三振率]]13.63の快投を見せるが、ヤンキースとの[[2001年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]第4戦では自己最速タイとなる96mph(約154km/h)を記録するも、[[アルフォンソ・ソリアーノ]]にサヨナラ本塁打を打たれ、チームは翌日の試合で敗退した。オフにはシーズン終了報告で任天堂の本社を訪れ、メジャー移籍を目指していた[[谷繁元信]]の獲得を進言したが、入団には至らなかった。 [[2002年]]は夫人の病気により一時は日本に帰国したが、6月1日まで自責点0と好投を続けた。6月26日のアスレチックス戦で19セーブ目を挙げ、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。[[2002年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]にも前年に続き2年連続で選出され、メジャー自己ベストの防御率2.52を残す。しかし後半は右ひじを痛めてやや調子を崩し、自己ワーストとなる救援失敗8を記録。レギュラーシーズン終了後は「アメリカにいるとテレビ(プレーオフ)を見てしまい、ポストシーズンに出場できなかった悔しさが倍増してしまう」と、10月上旬に帰国。 オフには[[日米野球]]の出場も辞退し、右ひじの遊離軟骨除去手術を受けた。この年はその他、自らがオーナーを務める[[モータースポーツ]]チーム「[[TEAM 22]]」で[[2002年のフォーミュラ・ニッポン|フォーミュラ・ニッポン]]に参戦し、[[伊藤大輔 (レーサー)|伊藤大輔]]をドライバーに起用した(メンテナンスはムーンクラフトに委託)。 [[2003年]]はアスレチックスとの日本開幕戦の記者会見に[[イチロー]]と共に出席。シーズンでは4月3日のアスレチックス戦で1イニング4三振の珍記録を達成するが、同月23日に右腰の張りのため、初の故障者リスト入り。5月には復帰し、投球に[[カット・ファストボール|カットボール]]も交える余裕もできる程の好投を続けたが、6月8日、遠征から帰宅し自宅にスーツケースを運び入れた際の転倒で右脇腹を強打し、再び故障者リスト入りする。この故障についてはGMに「最もがっかりした」と苦言を呈され、自身も「恥ずかしい。ほんと馬鹿だね。こんなところで」と悔んだ。8月13日の[[トロント・ブルージェイズ]]戦で復帰して以降は好調を維持した長谷川滋利がクローザーを務めたため、セットアッパーに降格。 シーズン終了後にはマリナーズとの残り1年契約を破棄して退団。退団理由については「日本で家族と一緒に暮らすため」と説明した。この年は前年に引き続き[[2003年のフォーミュラ・ニッポン|フォーミュラ・ニッポン]]にも参戦(メンテナンスは[[ルマン]]に委託)。[[脇阪寿一]]をドライバーに起用し、2勝を挙げた。 === 横浜復帰 === [[2004年]]、横浜に復帰。威力は多少衰えたとはいえ、数種類に変化するフォークボールは他球団の脅威となっていた。しかし、8月4日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦、7日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦で連続して救援に失敗、翌8日のヤクルト戦では[[土橋勝征]]、[[岩村明憲]]、[[古田敦也]]に3連続[[本塁打]]を浴びて逆転負けを喫する。11日、引退の意向を球団に伝えるが慰留を受けて後に撤回。その後二軍落ちし、そのままシーズンを終えた。 [[2005年]]は度重なる怪我の影響で[[登板]]3試合連続サヨナラ負けを喫するなど打ち込まれ、8試合0勝3敗4セーブ防御率9.53の成績で二軍落ち。その後復帰を目指して調整を続けていたが調子は上がらず、またその間に[[マーク・クルーン]]が抑えに台頭したこともあり、チームの戦力構想から外され、8月7日に現役引退を表明。「お袋の前で投げたい」との希望により、2日後の9日、故郷・[[仙台市|仙台]]の[[宮城球場|フルキャストスタジアム宮城]]で行われた対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で事実上の引退登板。対戦相手は高校時代からのライバルで親友でもある[[清原和博]]であった(結果は3球三振)。佐々木は球団との契約を盾に[[横浜ベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]のユニフォームを着用せず、[[イースタン・リーグ]]での調整登板もしていない状態であることから、横浜の[[牛島和彦]]監督はゲームに影響が出ないよう、普段は救援投手である[[秦裕二]]を先発させ、清原の第1打席で佐々木を投入。清原の打席後、改めて本来の先発投手[[門倉健]]を登板させるという継投策を取った。この投手起用について牛島は試合前、巨人の[[堀内恒夫]]監督に「お騒がせして申し訳ない」と謝罪した。この引退登板については公式戦の私物化と批判する意見もあり、チーム内でも[[野村弘樹]]コーチと[[福田功]]ヘッドコーチの間で対立が生じた。 10月8日、本拠地[[横浜スタジアム]]でのヤクルト戦で最終登板する予定だったが、今日の試合での登板はチームに迷惑をかけるとして自ら辞退、セレモニーのみが行われた。この時の挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と述べた。 === 現役引退後 === 現役引退後は横浜の親会社である[[TBSテレビ|TBS]]と[[日刊スポーツ]]の[[野球解説者]]に就任。野球評論家としても活動中。[[2010年]]12月7日、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される。[[2011年]]2月に韓国プロ野球・[[LGツインズ]]の臨時インストラクターを務める。 [[2006年]]5月16日、[[NAR]]の[[馬主]]登録、2006年11月には[[日本中央競馬会|JRA]]の馬主登録を行っている。所有馬の約半数には「マジン」の冠名をつけている。 [[2012年]][[2月11日]]の[[クイーンカップ]]で所有馬の[[ヴィルシーナ]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]]:[[友道康夫]]厩舎)が1着となり馬主として初めて[[重賞]]競走を制覇する。 2013年5月12日、[[ヴィクトリアマイル]]でヴィルシーナが優勝し、初のGI競走制覇を果たしている。 2016年5月。清原の裁判に登場して証言した。13日の昼帯で明らかになった == 選手としての特徴 == 最速96mph(約154km/h)の[[速球]]と数種類の[[フォークボール]]を武器とした他、120km/h台の縦の[[カーブ (球種)|カーブ]]も混ぜ、2003年には[[カット・ファストボール|カットボール]]も投げた。 フォークは落差の大きさから「2Fからのフォーク」とも呼ばれた。三振を奪うための速いタイプとカウントを取るための遅いタイプがあり、手首を固定せずフォーシームの握りで速球を投げるようにスナップを利かせて回転をかけることで投げる140km/h前後のフォークと、スナップを抑えて投げる[[チェンジアップ]]気味のフォークを投げ、縫い目にかける指を調節することで軌道を左右に曲げることもできた。ボールにはわずかな横回転のみが掛かり、縦回転がないため落差があり、回転しているので球種の判別がされ難い。 また、握りで球種を見破られることを防ぐために横幅の広い特注のグラブを作った他、リリースの瞬間に速球の握りからフォークの握りに変えるなどの工夫も凝らした。 == 人物 == 小学校時代の自身の経験から「中学生までは厳しく叱責せず楽しく野球をやらせるべき」との考えを持つ。小学生からアドバイスを求められても技術的な指導はしないという。 2006年3月19日に放送された[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の番組『[[いつみても波瀾万丈]]』内で「[[二日酔い]]の日も投げていた」と告白。しかし「二日酔いである事をチームメイトが知っているので、打たれる訳にはいかない」との思いで普段より頑張って投げていたという。 甘いもの(特に[[カスタードプディング|プリン]])が好物である。また料理も小学生の頃からしていたため得意。『[[浜ちゃんと!]]』(2006年[[10月24日]]放送)では[[浜田雅功]]に料理を振る舞い、絶賛された。父親が乳製品メーカーに勤めていたため、子供時代は乳飲料を水のように飲用した。 商業用(いわゆる[[BBM]]系など)の[[ベースボールカード|トレカ]]にはサインをしない主義であったが、「BBM2006 1st Version」の「引退選手」のコンテンツで初めて商業用の直筆サインを50枚書いた。 子供が見ていた影響で『[[美少女戦士セーラームーン]]』の[[水野亜美]]の熱狂的ファンになる(『[[関口宏の東京フレンドパークII]]』に出演した際、クイズの問題にされた)。 1990年代後半によくゲストで登場していた『[[ショウアップナイタープレイボール]]』で横浜の先発オーダーを佐々木が発表する際、日本人選手では年上の[[駒田徳広]]には「5番ファースト駒田'''さん'''」と敬称を付けていた([[中根仁]]ら他の年上の選手が先発の際も同様)。 生まれた時間が2月22日2時22分だった。それ以降もプロ宣告が告げられた日が[[12月22日]]、連続試合セーブ数が22、娘の誕生が2時22分だったなど、22に縁のある出来事が続いた。NHKの[[あさイチ]]では「大魔神の奇縁」として紹介された。 === 家族 === [[1991年]]に元[[アイドル]]の[[清水香織 (歌手)|清水香織]]と[[結婚]]。その後長女長男が誕生したが、メジャーリーグに行った頃に起きたすれ違いや、[[榎本加奈子]]との不倫関係、榎本の妊娠により夫婦仲は修復不可能になり[[2005年]]3月18日に離婚。子供2人の親権は佐々木が持つことになった。翌月の4月29日に榎本との間に男児が生まれ、5月9日に再婚する。[[2006年]]6月29日、再婚後2人目の子(男児)が誕生した。 ==== 大魔神佐々木の長女が継母・榎本加奈子を「あんた」呼ばわり ==== 元メジャーリーガーの佐々木主浩(42)とその妻・榎本加奈子(30)の間には4人の子供がいるが、そのうち長女と長男は、佐々木の前妻との間に生まれた子供だ。 結婚当初の榎本と長女・A子さんは、姉妹のように仲よく暮らしていた。だが、結婚から2年が経った2007年5月、当時、中学3年生だったA子さんは自宅を飛び出すようにして、佐々木の郷里、宮城の祖母の元に身を寄せた。原因は榎本とA子さんの間にいつの間にか生じていた軋轢だった。それから3年―― 「A子さんは高校入学を機に東京に戻ってきたんです。でも、榎本さんとのわだかまりは解けず、結局、自宅には戻らず、ひとり暮らしをしながら、都内の有名私立高校に通っているんです」(佐々木の知人) そんなA子さんはいまブログを始め、継母である榎本への思いを赤裸々に綴っていた。 <だれのおかげで今の生活があると思ってんだよ。こんなに我慢して耐えるなんて中学のときは気づけなかったよ。まんまと口車乗ってさ。(中略)追い出されるなら受け入れなきゃよかった。って毎日後悔してるよ。このブログ見てるらしいね!気持ち悪いからもうやめてくんない?二度とあんたのネタかかないから> それは、榎本によって家を追い出されたという、A子さんなりの告発だった。榎本を“あんた”呼ばわりする辛らつさからは、ふたりの溝の深さが伝わってくる。 「いま佐々木さんご夫妻の自宅では、榎本さんが産んだふたりのお子さんしか暮らしていません。A子さんの弟もまた、全寮制の学校に入学して家を出ているんです。A子さんは家族がバラバラになってしまった悲しみや苦しさをどこにぶつけていいかわからず、榎本さんにつらくあたっているのではないでしょうか」(前出・知人) ==== 大魔神・佐々木主浩が、実娘が自宅に「不法侵入」したと被害届(2014年9月) ==== 今年1月に[[野球殿堂]]入りを果たした「ハマの大魔神」こと佐々木主浩が、自分の長女(22)が自宅に不法侵入したとして、地元の警察に被害届を出していたことが分かった。長女本人が週刊文春の取材に対して明かした。 佐々木は[[2005年]]に[[不倫]]の末にタレントで女優の[[榎本加奈子]]と結婚しているが、この長女は前妻との間の子になる。 長女によると、中学生のときに継母として佐々木家に来た榎本は、いわゆる「[[ネグレクト]]」に近い態度で長女に接したという。結局、長女は榎本に自宅から追い出され、中学、高校時代は仙台の佐々木の実家や都内のワンルームで生活していた。 現在も都内で一人暮らしをしている長女だが、今年4月、持ち物を取りに他の家族がいない間に実家に入ったという。しかし、それが騒動になった。 「加奈子さんが『誰かが家に入った』と騒ぎ始め、警察沙汰になったのです。警察も『身内が入っただけでは』と言い、私も父に入ったことを伝えているのですが、加奈子さんは事件化にこだわっていたようで、結局、被害届が出されました。8月に私は事情聴取を受け、反省文を書くことになったのです」(長女) 佐々木に取材を申し込むと、マネージャーを通してこう回答した。 「家族でも最低限の礼儀は必要であり、佐々木が警察にお願いをして反省を促すべく彼女から事情を聴いてもらった形です」 榎本の公式ブログでしばしば家族円満ぶりを披露している佐々木夫妻だけに、この騒動の成り行きが注目される。 == 詳細情報 == === 年度別投手成績 === {| {{投手成績}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1990}} |rowspan="10" style="text-align:center;"|[[横浜ベイスターズ|大洋<br />横浜]] |16||7||0||0||0||2||4||2||--||.333||215||47.2||49||10||30||0||0||44||4||1||31||31||5.85||1.66 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1991}} |'''58'''||1||0||0||0||6||9||17||--||.400||467||117.0||72||7||51||8||4||137||5||1||33||26||2.00||1.05 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1992}} |53||0||0||0||0||12||6||21||--||.667||356||87.2||47||6||39||5||1||135||8||0||32||24||2.46||0.98 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1993}} |38||0||0||0||0||3||6||20||--||.333||226||55.0||35||6||21||1||2||84||3||0||24||20||3.27||1.02 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |31||0||0||0||0||3||1||10||--||.750||178||46.0||27||5||15||1||0||59||1||0||11||11||2.15||0.91 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |47||0||0||0||0||7||2||'''32'''||--||.778||210||56.2||30||5||17||1||0||78||4||0||12||11||1.75||0.83 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |39||0||0||0||0||4||3||'''25'''||--||.571||200||49.2||37||6||16||0||1||80||4||0||17||16||2.90||1.07 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |49||0||0||0||0||3||0||'''38'''||--||1.000||219||60.0||25||6||17||2||1||99||2||0||6||6||0.90||0.70 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |51||0||0||0||0||1||1||'''45'''||--||.500||212||56.0||32||1||13||0||1||78||1||1||7||4||0.64||0.80 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1999}} |23||0||0||0||0||1||1||19||--||.500||94||23.1||19||1||6||0||0||34||3||0||5||5||1.93||1.07 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2000}} |rowspan="4" style="text-align:center;"|[[シアトル・マリナーズ|SEA]] |63||0||0||0||0||2||5||37||0||.286||265||62.2||42||10||31||5||2||78||1||0||25||22||3.16||1.16 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2001}} |69||0||0||0||0||0||4||45||0||.000||261||66.2||48||6||11||2||4||62||4||0||24||24||3.24||0.89 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2002}} |61||0||0||0||0||4||5||37||0||.444||249||60.2||44||6||20||4||2||73||6||0||24||17||2.52||1.05 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2003}} |35||0||0||0||0||1||2||10||0||.333||150||33.1||31||2||15||2||1||29||4||0||17||15||4.05||1.38 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2004}} |rowspan="2" style="text-align:center;"|横浜 |25||0||0||0||0||1||2||19||--||.333||89||22.2||18||4||3||0||0||18||0||1||8||8||3.18||0.93 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2005}} |9||0||0||0||0||0||3||4||0||.000||31||6.0||11||2||2||0||0||5||0||0||6||6||9.00||2.17 |- !colspan="2"|[[日本プロ野球|NPB]]:12年 |439||8||0||0||0||43||38||252||0||.530||2497||627.2||402||59||230||18||10||851||35||4||192||168||2.41||1.01 |- !colspan="2"|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:4年 |228||0||0||0||0||7||16||129||0||.304||925||223.1||165||24||77||13||9||242||15||0||90||78||3.14||1.08 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 * 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更 === タイトル === ;NPB * [[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]:5回 (1992年、1995年 - 1998年) === 表彰 === ;NPB * [[最優秀選手 (野球)|MVP]]:1回 (1998年) * [[最優秀投手]]:1回 (1998年) * [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:1回 (1998年) * [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:4回 (1991年7月、1997年8月、1998年6月、1998年9月) * [[ファイアマン賞]]:5回 (1992年、1995年、1996年、1997年、1998年) * [[正力松太郎賞]] (1998年) * [[最優秀バッテリー賞]]:1回 (1998年、捕手:[[谷繁元信]]) * [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:2回 (1997年、1998年) * 優秀[[JCB・MEP賞]]:1回 (1998年) * [[JA全農Go・Go賞]]:1回 (最多奪三振賞:1992年5月) * セ・リーグ会長特別賞:1回 (2005年) ;MLB * [[アメリカンリーグ]][[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人王]](2000年) === 記録 === ;NPB初記録 * 初登板:1990年4月7日、対[[中日ドラゴンズ]]1回戦([[ナゴヤ球場]])、10回裏に4番手として救援登板・完了、1回無失点 * 初奪三振:同上、10回裏に[[落合博満]]から * 初セーブ:1990年4月11日、対[[広島東洋カープ]]2回戦([[横浜スタジアム]])、8回表に4番手として救援登板、2回1失点 * 初先発:1990年5月13日、対中日ドラゴンズ6回戦([[宮城球場]])、4回1/3を3失点で敗戦投手 * 初勝利・初先発勝利:1990年5月24日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]8回戦([[明治神宮野球場]])、5回3失点 ;NPB節目の記録 * 100セーブ:1995年9月27日、対[[読売ジャイアンツ]]26回戦([[東京ドーム]])、8回表2死に3番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点 ※史上8人目 * 150セーブ:1997年8月7日、対[[阪神タイガース]]17回戦(横浜スタジアム)、8回表2死に5番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点 ※史上2人目 * 200セーブ:1998年9月4日、対中日ドラゴンズ18回戦([[ナゴヤドーム]])、10回裏2死に4番手として救援登板・完了、1/3回無失点 ※史上初 * 250セーブ:2005年4月14日、対ヤクルトスワローズ2回戦(横浜スタジアム)、9回表に4番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目 ;NPBその他の記録 * 3者連続3球三振:1991年8月28日、対広島東洋カープ23回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、9回裏に[[達川光男]]・[[原伸樹]]・[[音重鎮]]から ※史上11人目(セ・リーグ6人目) * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:8回 (1992年 - 1993年、1995年 - 1999年、2005年) ;MLB * [[MLBオールスターゲーム]]選出:2回 (2001年 - 2002年) === 背番号 === * '''22''' (1990年 - 2005年) == 関連情報 == === 佐々木が登場する作品 === * 漫画『[[ササキ様に願いを]]』([[みずしな孝之]])- 自称「ササキ様」で傲慢かつ乱暴なキャラとして登場している。漫画の知名度が上がったため実際の佐々木も「ササキ様」と呼ばれるようになった。 * [[パチンコ]][[CR機|CR]]大魔神 - 2005年3月リリース === 出演番組 === ===== テレビ ===== * [[侍プロ野球]] * [[TBSラジオ エキサイトベースボール]] * [[S☆1]](準レギュラー) * [[武蔵 MUSASHI]]([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、2003年)- [[大野治房]] 役 サンデーモーニング。喝のコーナーに不定期出演 ほか ===== ラジオ ===== * [[スポーツBOMBER]]([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]) * [[ショウアップナイタープレイボール]]([[ニッポン放送]]) * 佐々木主浩のスポーツKING!(ニッポン放送) ほか ===== CM ===== * [[日清食品]]「[[ごんぶと]]」 * [[ネスレ日本]]「[[ネスレ・ミロ]]」 * [[常盤薬品工業]]「ビタシーゴールド」 * [[任天堂]]「[[モバイルアダプタGB]]」 * [[麒麟麦酒|キリンビール]]「[[麒麟淡麗〈生〉]]」 * [[文部科学省]]「薬物濫用防止キャンペーン」 === 著書 === * 大魔神伝 (2000/5・[[集英社]]) ISBN 4087803112 * ロッカールーム―僕とメジャーリーガーたちの栄光と屈辱 (2003/3・[[祥伝社]]) ISBN 4396611838 * 奮起力。 (2010/04・創英社 ISBN 4881421921 === 音楽作品 === * break new ground(2000/03) == 所有馬 == * [[ヴィルシーナ]](2013年[[ヴィクトリアマイル]]1着、2012年 [[クイーンカップ]]、[[桜花賞]]2着、[[優駿牝馬]]2着、[[秋華賞]]2着、[[エリザベス女王杯]]2着) * [[マジンプロスパー]](2012年 [[阪急杯]]、[[CBC賞]]) == 関連項目 == * [[宮城県出身の人物一覧]] * [[東北福祉大学の人物一覧]] * [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]] * [[日本人メジャーリーグ選手一覧]] * [[日本人メジャーリーガーが獲得したタイトル・表彰一覧]] * [[日本人のマイナーリーグ選手一覧]] * [[トニー・アタナシオ]] - メジャー時代の契約に携わったスポーツエージェント * [[五十嵐英樹]] - 1998年横浜優勝時の[[リリーフ|セットアッパー]]。佐々木のニックネーム「大魔神」にあやかって「ヒゲ魔神」と呼ばれた。 == 外部リンク == {{MLBstats |mlb=277408 |espn=4218 |br=s/sasakka01 |fangraphs=1098 |cube=S/kazuhiro-sasaki}} * [http://daimajin-sasaki22.com/ KAZUHIRO SASAKI OFFICIAL WEB SITE] {{横浜大洋ホエールズ1989年ドラフト指名選手}} {{歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後・1991-2010)}} {{DEFAULTSORT:ささき かつひろ}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:MLBの日本人選手]] [[Category:東北福祉大学硬式野球部の選手]] [[Category:横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手]] [[Category:最優秀選手 (NPB)]] [[Category:シアトル・マリナーズの選手]] [[Category:ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)]] [[Category:MLBオールスターゲーム選出選手]] [[Category:名球会]] [[Category:野球解説者]] [[Category:MLB解説者]] [[Category:日本の競馬に関する人物]] [[Category:馬主]] [[Category:仙台市出身の人物]] [[Category:1968年生]]