「吉田知行」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(先編集権主張。パラボナ (トーク) による版 356341 を取り消し)
(片桐・安藤1994により加筆。)
4行目: 4行目:
 
天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる{{Sfn|都築|1917|p=351}}。
 
天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる{{Sfn|都築|1917|p=351}}。
  
1877年(明治10年)7月、[[尾張徳川家]]の当主・[[徳川慶勝]]により、北海道の開墾地選定のため調査に派遣され、約3ヶ月間踏査。この調査を受けて、尾張徳川家は、明治維新政府から開墾地として遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の下付を受けた。{{Sfn|大石|1994|pp=98-99}}
+
1875年(明治8)12月、[[尾張徳川家]]第16代当主・[[徳川義宣]]の死去、[[徳川慶勝]]の再家督に伴い、[[尾張徳川家#家扶|同家の家扶]]を命ぜられる{{Sfn|片桐|安藤|1994|pp=52-54}}
  
1878年7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。{{Sfn|大石|1994|pp=98-99}}
+
1877年(明治10)7月、徳川慶勝により、北海道の開墾地選定のため調査に派遣され、約3ヶ月間踏査。この調査を受けて、尾張徳川家は、明治維新政府から開墾地として遊楽部(ユーラップ、[[胆振国]][[山越郡]]山越内村字)の下付を受けた。{{Sfn|大石|1994|pp=98-99}}
  
1883年(明治16年)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は[[海部昂蔵]]と交代した。{{Sfn|大石|1994|p=126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。}}
+
1878年(明治11)7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。{{Sfn|大石|1994|pp=98-99}}
  
1884年(明治17年)頃、[[徳川義礼]]、[[野呂景義]]、[[堀鉞之丞]]らと[[英国]]・[[ロンドン]]へ留学{{Sfn|長沼|2015|pp=84-85}}。3年間遊学した後、帰国{{Sfn|都築|1917|p=351}}。
+
1883年(明治16)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は[[海部昂蔵]]と交代した。{{Sfn|大石|1994|p=126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。}}
 +
 
 +
1884年(明治17)頃、[[徳川義礼]]、[[野呂景義]]、[[堀鉞之丞]]らと[[英国]]・[[ロンドン]]へ留学{{Sfn|長沼|2015|pp=84-85}}。3年間遊学した後、帰国{{Sfn|都築|1917|p=351}}。
  
 
英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した{{Sfn|長沼|2015|p=84 - {{Harvtxt|藤田|2010}}による。}}。
 
英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した{{Sfn|長沼|2015|p=84 - {{Harvtxt|藤田|2010}}による。}}。
  
1900年(明治33年)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡[[長久手村]]岩作で暮らす{{Sfn|都築|1917|p=351}}。
+
1900年(明治33)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡[[長久手村]]岩作で暮らす{{Sfn|都築|1917|p=351}}。
  
晩年、[[胃癌]]を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る。1913年(大正2年)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。{{Sfn|都築|1917|p=351}}
+
晩年、[[胃癌]]を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る。
 +
 
 +
1913年(大正2)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。{{Sfn|都築|1917|p=351}}
  
 
==付録==
 
==付録==
23行目: 27行目:
 
*{{Aya|藤田|year=2010}} 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」『徳川林政史研究所紀要』no.44、2010年3月
 
*{{Aya|藤田|year=2010}} 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」『徳川林政史研究所紀要』no.44、2010年3月
 
*城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982年、{{JPNO|82016419}}
 
*城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982年、{{JPNO|82016419}}
 +
 
=== 脚注 ===
 
=== 脚注 ===
{{Reflist|18em}}
+
{{Reflist|20em}}
 +
 
 
=== 参考文献 ===
 
=== 参考文献 ===
 
*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
 
*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
 
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
 
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
 
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
 
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
 +
*{{Aya|片桐|安藤|year=1994}} 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、{{NDLJP|6045201/23}}{{閉}}
 
*{{Aya|都築|year=1917}} 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、{{NDLJP|955971}}
 
*{{Aya|都築|year=1917}} 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、{{NDLJP|955971}}
  

2020年2月3日 (月) 00:30時点における版

吉田 知行(よしだ ともつら/ともゆき、1844年2月9日-1913年5月22日)は、幕末・明治期の尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家の当主・徳川慶勝の命により北海道の開墾地を調査して遊楽部(のちの八雲町)を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾に携わった。1883年に同家の家令となり、当主・徳川義礼とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡長久手村で暮らした。先編集者由亜辺出夫


経歴

天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる[1]

1875年(明治8)12月、尾張徳川家第16代当主・徳川義宣の死去、徳川慶勝の再家督に伴い、同家の家扶を命ぜられる[2]

1877年(明治10)7月、徳川慶勝により、北海道の開墾地選定のため調査に派遣され、約3ヶ月間踏査。この調査を受けて、尾張徳川家は、明治維新政府から開墾地として遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の下付を受けた。[3]

1878年(明治11)7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。[3]

1883年(明治16)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は海部昂蔵と交代した。[4]

1884年(明治17)頃、徳川義礼野呂景義堀鉞之丞らと英国ロンドンへ留学[5]。3年間遊学した後、帰国[1]

英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した[6]

1900年(明治33)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡長久手村岩作で暮らす[1]

晩年、胃癌を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る。

1913年(大正2)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。[1]

付録

関連文献

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 都築 1917 351
  2. 片桐 安藤 1994 52-54
  3. 3.0 3.1 大石 1994 98-99
  4. 大石 1994 126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。
  5. 長沼 2015 84-85
  6. 長沼 2015 84 - 藤田 (2010 )による。

参考文献

  • 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
  • 長沼 (2015) 長沼秀明「徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
  • 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
  • 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23 (閉)
  • 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、NDLJP 955971