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2020年1月8日 (水) 03:57時点における版

{| class="infobox" cellpadding="4" cellspacing="0" style="width: 300px; margin: 0 0 1em 1em; font-size: 95%;" |+ style="font-weight: bold; font-size: larger" | 大日本帝國 | colspan="2" style="text-align: center" | {| cellpadding="2" cellspacing="0" style="text-align:center;" |- | style="width:130px" | [[Image:Merchant_flag_of_Japan_(1870).svg|border|130px|日本の国旗]]<br /><small>[[日本の国旗|国旗]]</small> || style="width:130px" | [[Image:16 Yae Kiku.png|90px|菊花紋章]]<br /><small>[[国章|準国章]]: [[菊花紋章]]</small> |- | colspan="2" | [[Image:Location Japanese Empire.png]] |} |- ! [[標語]] | (なし) |- ! [[公用語]] | [[日本語]](事実上の公用語)<br />[[朝鮮語]]、[[台湾語]]なども使われていた。 |- ! [[首都]] | [[東京]] |- ! [[面積]] | 675千[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<small>(昭和初期の領土)</small> |- ! [[人口]] | 9770万人 <small>(昭和10年国勢調査での領土内の人口)</small> |- ! [[政府]] | [[1889年]]以前は[[絶対君主制]]、1889年以降は[[立憲君主制]]。 |- ! [[国家元首]] | [[明治天皇]] → [[大正天皇]] → [[昭和天皇]] |- ! [[内閣総理大臣の一覧|内閣総理大臣]] | ''[[内閣総理大臣の一覧]]''を参照 |- ! [[通貨]] | [[円 (通貨)|円]] |- ! [[国歌]] | [[君が代]] |} '''大日本帝国'''(だいにっぽんていこく / だいにほんていこく、[[字体#旧字体|旧字体]]: '''大日本帝國''')は、[[1889年]]([[明治]]22年)[[大日本帝国憲法]]発布時から[[1947年]]([[昭和]]22年)[[日本国憲法]]施行時までの約58年間、[[天皇]]が[[大日本帝国憲法]]を通じて統治する[[日本]]として使用された[[国号]]のひとつ。[[1868年]](明治元年)の[[明治維新]]から[[1945年]](昭和20年)の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本の[[領域 (国家)|領土]]に加え、[[樺太|南樺太]]、[[千島列島]]、[[朝鮮半島]]、[[台湾]]などを領有していた他、[[北東アジア]]や[[太平洋]]にいくつかの[[委任統治]]領や[[租借地]]を保有した。 以下は[[大日本帝国憲法]]下の[[国家]]について記述する。 <!-- == 元首 == [[大日本帝国憲法第1条]]には、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、天皇家の男系男子から天皇が選ばれていた。大日本帝国には、[[明治天皇]]、[[大正天皇]]、[[昭和天皇]]の3代の天皇が存在した。そのうち、明治天皇は即位から1年弱の間は[[江戸幕府|徳川政権]]下における天皇を務め、昭和天皇は[[大日本帝国]]を後継した[[日本国]]においても天皇([[象徴天皇制]])を務めた。 --> == 国名 == [[Image:Teikendaij.png|thumb|100px|憲法原本での国名]] === 経緯 === <!--  === 起源 === --> [[明治天皇]]は[[1868年]][[1月3日]]([[慶応]]3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])、[[王政復古 (日本)|王政復古]]を宣言。1889年(明治22年)2月11日には[[大日本帝国憲法]](帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり'''大日本帝國'''という国名を称した。初め[[伊藤博文]]が明治天皇に提出した憲法案では'''日本帝國'''であったが、憲法案を審議する[[枢密院 (日本)|枢密院]]会議の席上、[[寺島宗則]]副議長が、皇室典範案に'''大'''日本とあるので文体を統一するために憲法も'''大'''日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の[[井上毅]]書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により'''大'''日本帝國に決められた<ref>枢密院会議筆記明治21年(1888年)6月18日午後。</ref>。 帝国憲法の半公式の英訳([[伊東巳代治]]訳)では「the Empire of Japan」 と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された[[旧皇室典範|皇室典範]]では'''日本帝國'''、'''大日本國'''と表記し、外交文書では'''日本'''、'''日本國'''とも称したし、国内向けの[[文書|公文書]]でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対する拘りが表面化した1935年(昭和10年)7月、[[外務省]]は外交文書上'''「大日本帝國」'''に表記を統一することを決定した<ref>外務省条約局作成(昭和11年5月)「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)。外務省外交史料Q&A[http://www.mofa.go.jp/mofaJ/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html]「戦前の日本では、国号の英語標記を “Japan"から“Nippon"に変更しようとする動きがあったそうですが、このことに関する史料はありますか。」 </ref>。[[国号]]を参照。 <!-- === 終焉 === [[1945年]](昭和20年)8月14日、昭和天皇の内意を受けた日本政府は[[ポツダム宣言]]の受諾を決定、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])における[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[中華民国]]などの[[連合国]]との間の戦闘停止に合意する。そして9月2日午前9時2分、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[重光葵]]と[[大本営]]の[[参謀総長]][[梅津美治郎]]が[[東京湾]]内に停泊していた[[アメリカ海軍]][[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]上で降伏文書に署名し、日本政府は正式に連合国に降伏した。 --> [[第二次世界大戦]]後、日本政府が1946年2月8日に[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝國」のままにしていたが、2月13日、GHQ/SCAPの[[コートニー・ホイットニー|ホイットニー]]により、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が[[吉田茂]]外務大臣、[[松本烝治]]国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が[[日本|日本國]]となり、1947年(昭和22年)5月3日[[日本国憲法]]施行により憲法上は日本國の名称が用いられることとなった。 <!-- 形式的には名称としての大日本帝国は終戦後も日本国憲法施行までは存続していた。特定の政治体制は[[ポツダム宣言]]受諾とともに変更されたとする憲法学説もある([[八月革命説]]参照)。-->[[日本国憲法]]下の日本では[[主権在民]]に変更されつつ、[[象徴天皇制]]として[[皇室]]は維持された。 === 通称 === [[通称]]では[[帝国]]と呼び、また[[皇国]]とも称した。[[日本海海戦]]での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名であるが、より一般的な[[日本]]や日本国等も通称では使われていた。 現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する[[日本水準原点]]標庫のみである。民間では[[帝国データバンク]]、[[帝国劇場]](通称「帝劇」)、[[帝国ホテル]]、[[帝国書院]]、[[帝国制帽]]、[[帝国石油]]のように、「帝国」を使用しているものもある。 [[2004年]]に[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「[[帝都]]」を冠した[[帝都高速度交通営団]]であった。[[京王電鉄]]も同様に、社名変更前は「京王帝都電鉄」(京王電鉄と[[京王井の頭線#歴史|帝都電鉄]]が合併した名称)と「帝都」を冠し、警備会社では[[テイケイ]]が「帝国警備保障」を、[[帝人]]が「帝国人造絹糸」と「帝国」を冠していた。 また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある。 == 国土 == [[Image:EmpireOfJapan0.png|thumb|350px|大日本帝國の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2'. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮(以上領土)、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島]] 大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、[[国際連盟]]に統治を委任された[[委任統治]]区域があった。このほか、行政権及び自国民への裁判権を有する[[#一部統治区域|一部統治区域]]があった。 === 首都 === 憲法や法令に[[首都]]の規定はないが、大正12年9月12日詔書で「[[東京]]ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として'''[[帝都]]'''と称され、[[宮城]](きゅうじょう、[[皇居]])が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、[[帝国議会]]が開かれ、戦時には[[大本営]]が置かれた。 東京以外の首都機能としては、天皇の所在を示す[[高御座]]が[[京都御所]]に安置され、[[即位の礼]]や[[大嘗祭]]が行われていたことから、[[京都市]]がその一部を担っていたといえる。また[[広島県|広島]]は、[[日清戦争]]中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、[[大東亜戦争]]で[[本土決戦]]になる場合は天皇と大本営を[[長野県]][[松代町 (長野県)|松代町]]の地下壕に移す予定であったが、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。 === 領土 === 領土は完全な領有権を有する区域であり、[[内地]]、[[樺太]](後に内地に編入)、[[台湾]]、[[朝鮮]]からなる。このほか一時[[遼東半島]]を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記の通り。領土面積は最大675,000km<sup>2</sup>。各領土の概要は下記の通り。 ; 内地 : 日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下の通り。 :* [[本州]]・[[九州]]・[[四国]]:日本の古来からの領土([[東北地方]]は[[平安時代]]以降)。[[古事記]]は[[淡路島|淡路]]、[[対馬]]、[[壱岐島|壱岐]]、[[隠岐諸島|隠岐]]、[[佐渡島|佐渡]]と合わせて'''[[大八島]]'''と呼ぶ。 :* [[北海道]]:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:[[和人地]])。[[1855年]]の[[日露和親条約|日本国魯西亜国通好条約]]([[安政]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]締結)により[[択捉島]]と[[得撫島]]の間に[[国境]]を確定。 :* [[沖縄]]:日清両属の[[琉球王国]]だったが、1872年、[[沖縄県の歴史#琉球処分|第一次琉球処分]]により[[琉球藩]]を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年([[1872年]])9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。 :* [[千島列島|千島]]:1875年[[樺太・千島交換条約|千島樺太交換条約]](明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。 :* [[小笠原群島|小笠原]]:1876年、[[官吏]]を派遣し[[実効支配|実効統治]]する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。 : このほか以下の島々を内地に編入した。 :* [[北大東島]]・[[南大東島]]:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。 :* [[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]・[[北硫黄島]]・[[南硫黄島]]:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。 :* [[南鳥島]]:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年([[1898年]])東京府告示第58号)。 :* [[尖閣諸島|魚釣島]]・久場島:1895年[[沖縄県]]の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。 :* [[沖大東島]]:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。 :* [[竹島 (島根県)|竹島]]:1905年[[島根県]]に編入(明治38年島根県告示第40号)。 :* [[中ノ鳥島]]:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。 :* [[沖ノ鳥島]]:1931年[[東京府]]小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。 ; 樺太 : [[日持]]上人が訪れるなど、古くは[[鎌倉時代]]から日本との関わりがあり、[[江戸時代]]は[[松前藩]]の[[陣屋]]や[[アイヌ]]などとの交易場所なども設けられていたが、[[樺太島仮規則]]などの[[不平等条約]]で[[ロシア帝国|ロシア]]との雑居地とされた後、1875年、[[樺太・千島交換条約|千島樺太交換条約]]によりロシアに譲渡。1905年、[[日露戦争]]([[樺太作戦]])で[[占領]]し、同年の[[ポーツマス条約]](日露講和条約、明治38年勅令号外)により[[緯度|北緯]]50度以南を割譲させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。[[樺太庁]]を参照。 ; 台湾 : 台湾本島と[[澎湖諸島|澎湖島]]を[[日清戦争]]で占領し、1895年、[[下関条約]](日清講和条約、明治28年勅令号外)により、[[清|清国]]に割譲させて獲得。1938年、[[南沙諸島|新南群島]]を台湾[[高雄市]]に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。[[日本統治時代 (台湾)]]の項を参照。 ; 遼東半島(奉天半島) : 日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、[[三国干渉]]を受けて、同年中の奉天半島還付ニ関スル条約(明治28年勅令号外)により返還した。この間、ごく短期ではあるが、領土であった。 ; 朝鮮 : 1910年、[[日韓併合条約|韓国併合ニ関スル条約]](明治43年条約第3号)により領土に加え、[[s:韓國ノ國號ヲ改メ朝鮮ト稱スルノ件|韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件]](明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。[[日本統治時代の朝鮮]]の項を参照。 === 租借地 === 租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から[[関東州]]と一時[[膠州市|膠州]](青島)を租借した。 ; 関東州 : [[遼東半島]]先端の[[大連市|大連]]・[[旅順]]近辺。ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。租借期限は1923年までだったが、1915年、南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長([[ポツダム宣言]]受諾により1945年に失効)。 ; 膠州 : [[山東半島]]南岸の[[青島市|青島]]近辺。[[ドイツ帝国|ドイツ]]の租借地だったが、[[第一次世界大戦]]で占領。1920年[[ヴェルサイユ条約|同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約]](大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の[[s:山東懸案解決ニ関スル条約|山東懸案解決ニ関スル条約]](大正11年条約第3号)により中華民国に返還。 === 委任統治区域 === ; [[南洋諸島|南洋群島]] : 西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年[[ヴェルサイユ条約|同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約]](大正8年条約第1号)により、[[国際連盟]]の[[委任]]に基づき統治する委任統治区域とした。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行う。 === 一部統治区域 === ; 南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) : [[南満州鉄道|南満洲鉄道]](満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や[[鉱山]]などからなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得した。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を[[満洲国]]に移譲するとともに、[[治外法権]]を撤廃した(昭和12年条約第15号)。 ; [[租界]] : '''[[専管租界]]'''を1897年[[杭州市|杭州]]と[[蘇州市|蘇州]]に、1898年[[天津市|天津]]に、1898年[[漢口]]に、1901年[[重慶市|重慶]]に、それぞれ開設した。また、[[上海市|上海]]の'''[[共同租界]]'''に参加していた。[[北京市|北京]]には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した'''公使館区域'''があった。このほか[[沙市区|沙市]]、[[福州市|福州]]、[[廈門市|厦門]]に租界を設置する権限があったが設置しなかった。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1943年、中華民国([[汪兆銘政権]])に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。 ===第二次世界大戦による占領地=== [[香港]]、[[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]、[[マレーシア]]、[[シンガポール]]、[[ビルマ]]、[[インドネシア]]、[[ブルネイ]]、 == 住民 == 大日本帝国憲法下の日本で大日本帝国の国籍を有する者を'''日本人'''、'''日本国民'''、'''日本臣民'''といった。大日本帝国憲法では'''日本臣民'''の名称が使用されている。国籍の要件は[[国籍法 (大日本帝国)|国籍法]](明治32年法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。 === 国民 === ; 内地人 : '''内地人'''とは[[戸籍法]](明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。現在の日本国民にほぼ相当する。内地人には[[華族]]、[[士族]]、[[平民]]の別があり、華族は[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。 ; 樺太人 : '''樺太人'''は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では'''土人'''と呼ばれた。また'''樺太土人'''ともいう。樺太人は大日本帝国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では大日本帝国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太[[アイヌ]]であり、他に[[ニヴフ]]、[[ウィルタ]](当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。 ; 台湾人 : '''台湾人'''は[[台湾]]の在来住民である。'''[[本島人]]'''ともいう。1895年台湾割譲の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が[[漢族]]、1割が[[高砂族]]である。行政上は[[日本国との平和条約]]の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は[[日本国と中華民国との間の平和条約]]の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失したとされている。 ; 朝鮮人 : '''朝鮮人'''は朝鮮の在来住民である。[[1910年]]の韓国併合の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧[[大韓帝国]]の皇族は[[王公族]]、一部の[[両班]]や韓国併合に功績のあった者は[[朝鮮貴族]]に封じられた。これらの人々は1952年、[[日本国との平和条約]]の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失した。 === 国民以外 === 正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、大日本帝国籍が与えられず、国民として扱われなかった。 [[国際連盟]]からの委任統治区域であった[[南洋諸島|南洋群島]]の在来住民を'''島民'''といった。島民は国籍がなかった。島民の大部分は[[カナカ族]]であり、他に[[チャモロ族]]がいた。 租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初[[清|清国]]籍、後に[[中華民国]]籍を経て、1932年に[[満州国]]が建国された後は満洲国籍とみなされた<ref>ただし満州国には国籍法が存在しなかったため、法的な「満州国民」は存在しなかった。''[[満州国#国籍法の不存在]]''を参照のこと。</ref>。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。これらの大部分は[[漢族]]である。 == 統治機構 == [[ファイル:Politics Under Meiji Constitution 02.png|thumb|400px|大日本帝國の統治機構]] 大日本帝国は1890年帝国憲法施行に伴い立憲君主国家に移行した。帝国憲法上は国家元首である[[天皇]]が統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条)、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。これは「統治構造の割拠性」といわれる(辻清明)。 === 内閣と宮中 === 統治権に関する天皇の権限は[[国務大臣]]の輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条)。[[内閣]]は国務大臣で組織され(内閣官制第1条)、帝国憲法上[[天皇大権]]とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。 [[内閣総理大臣]]は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、[[元老]](のち[[重臣]])と呼ばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。 [[天皇]]の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった。ただし、天皇は単なる[[傀儡]]ではなく、当時のイギリス国王など他の[[立憲君主制|立憲君主]]と同様、政治上の決定に関与していた(伊藤之雄)。天皇の側近には、[[侍従長]]や[[内大臣]]などがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。その他、皇室の事務については[[宮内大臣]]が輔弼した。なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。 === 帝国議会と枢密院 === 立法権は、天皇が[[帝国議会]]の協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条)。帝国議会は[[貴族院 (日本)|貴族院]]・[[衆議院]]の二院制であり、貴族院は[[皇族]][[華族]]と[[勅任議員]](元官僚など)で組織され、[[衆議院]]は公選された議員から組織された(憲法第33 - 35条)。 帝国議会は[[法律]]の制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条)。国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。また、帝国議会は毎年の[[予算]]に対しても協賛権を持った(憲法第64条)。予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条)、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これにより[[政党内閣]]への道が開かれた。ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。 * 政府は法律の定めのない事項につき[[独立命令]]により法規を定める権限を有した(憲法第9条)。 * 国際条約の締結に関して帝国議会の協賛は不要であった(憲法第12条)。 * 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。 * [[旧皇室典範|皇室典範]]改正については帝国議会の協賛は不要であった(憲法第74条)。 * 憲法改正については帝国議会に発案権がなかった(憲法第73条)。 もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりに[[枢密院 (日本)|枢密院]]の審議を経る必要があった。枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要な国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条)、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。枢密院は行政への関与を禁じられたが(枢密院官制第8条)、しばしば政府に干渉した。 === 裁判所 === 司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条)。民事・刑事の裁判については、[[大審院]]を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別の[[行政裁判所]]が扱った(憲法第61条、行政裁判法)。 === 陸海軍 === 陸海軍の統帥(憲法第10条)は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した('''[[統帥権]]の独立''')。統帥部は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[参謀本部]]と[[大日本帝国海軍|海軍]]の[[軍令部]]が並立し、戦時に両者は形だけ統合して[[大本営]]が置かれた。統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める[[帷幄上奏権]]という特権を有した。陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使したほか、帷幄上奏を通じて統帥に関する[[勅令]]の決定を求め、これに副署する権限を有した。この勅令は総理大臣の副署を要しなかったが、1907年の[[公式令]]制定によって全ての勅令に総理大臣の副署が必要になると、勅令とは別に「[[軍令]]」という法形式を新設し(明治40年軍令第1号)、陸海軍大臣のみが副署する権限を保った。 この'''統帥権の独立'''によって陸海軍に対する[[文民統制|シビリアンコントロール]](文民統制)が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果になったとする意見もある<ref>中曽根康弘、石原慎太郎共著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p.115</ref>。 === 外地統治 === 内地以外の国土を総称して[[外地]]あるいは[[植民地]](殖民地)などという。外地には[[朝鮮総督府]]、[[台湾総督府]]、[[樺太庁]]、[[関東庁]]、[[南洋庁]]といった官庁が置かれ、統治が委任された。これら外地官庁の要職は内地人で占められていた。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しなかった。外地では地方参政権を付しており、朝鮮人や台湾人<ref>[http://s03.megalodon.jp/2009-0604-2327-09/www.nittaikyo-ei.join-us.jp/koichi.html 戦間期台湾地方選挙に関する考察] 台湾研究フォーラム</ref>による地方議会が運営されていた。 {{Main|外地}} == 国際連盟常任理事国 == 大日本帝国は1920年に発足した[[国際連盟]]の[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]であり、1933年3月27日(正式には1935年3月27日)に脱退するまで大きな役割を果たしてきた。[[国際連盟]]設立へ向けた[[1919年]]の[[パリ講和会議]]では非白人国唯一の大国として[[人種差別撤廃案]]を提出し人種平等を訴え多くの国の賛意を得た。 == その他 == * [[台湾]]の領有により、大日本帝国最高峰は[[富士山]]から[[玉山 (台湾)|玉山]](新高山)へと変わった。 * 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図るため、東京のタクシー会社は4社に統合させられた。これら4社[[大和自動車交通]]・[[日本交通 (東京都)|日本交通]]・[[帝都自動車交通]]・[[国際自動車]]の各社名は、「大日本帝国」を分割したものに由来するといわれている。東京四社営業委員会を設立し、戦後も業界大手として営業し、タクシーチケット、タクシークーポンの共通化など連携した営業行動をとる。現在でも、[[東京四社営業委員会]]に属するタクシー会社4社の通称として「大日本帝国」と呼ぶことがある。 <!-- * [[大東文化大学]]、[[日本大学]]、[[帝京大学]]、[[国士舘大学]]の4大学をそれぞれの頭文字をとって'''大日本帝国'''と呼ぶことがある{{要出典}}。⇒これは、主に受験界での大学群呼称である「大東亜帝国」(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学)と間違えていませんか?--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 美濃部達吉著『憲法撮要』改訂第5版、有斐閣、1932年(復刻1999年) * 百瀬孝著・伊藤隆監修『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館、1990年 * ジョン・トーランド著『大日本帝国の興亡』ハヤカワ文庫、毎日新聞社訳、1984年 *「国号に見る「日本」の自己意識」前野 みち子(名古屋大学大学院国際文化研究科 言語文化研究叢書第5号(2006年3月)「日本像を探る」 )[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/5/maeno.pdf] *我国国号問題ニ関スル資料(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」外務省条約局第一課昭和11年5月 アジア歴史資料センター所収)[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl]レファレンスコード「B04013401600」で検索可能 == 関連項目 == * [[天皇]] * [[国体]] * [[天皇制]] * [[日本帝国主義]] * [[明治]] * [[大正]] * [[昭和]] * [[大日本帝国憲法]] * [[大日本帝国陸軍]] * [[大日本帝国海軍]] * [[軍服 (大日本帝国陸軍)]] * [[帝国]] * [[大東亜共栄圏]] * [[君主制]] * [[帝国議会]] * [[ポツダム宣言]] * [[日本国皇帝]] * [[統帥権]] * [[君主主権]] * [[植民地]] {{DEFAULTSORT:たいにほんていこく}} [[Category:天皇制]] [[Category:日本の歴史]] [[Category:大日本帝国|*]]