笹川良一

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[[Image:RyoichiSasakawa_face.jpg|thumb||300px]] '''笹川 良一'''(ささかわ りょういち、[[1899年]]([[明治]]32年)[[5月4日]] - [[1995年]]([[平成]]7年)[[7月18日]])は、[[日本]]の[[右翼活動家]]。 {{Template:語録 (塩爺)|これはねえ、やっぱり狂ってますよ。この笹川は。<br /> 顔見てご覧なさい。目はつり上がってるしね。顔がぼうっと浮いているでしょ。<br /> これ[[気違い]]の顔ですわ}} [[国粋大衆党]]総裁、[[衆議院議員]]、[[財団法人]][[日本船舶振興会]]会長、[[福岡工業大学]]理事長を務めた。[[称号]]は[[箕面市]][[市民#名誉市民の称号|名誉市民]]。[[勲一等旭日大綬章]]受章者。 == 人物 == 一般には[[ファシスト]]、[[右翼]]、また政財界の[[黒幕]]としても知られ、「'''日本の首領'''(ドン)」とまで呼ばれた。[[1974年]]([[昭和]]49年)、[[アメリカ]]の[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の[[インタビュー]]では「私は世界で一番金持ちの[[ファシスト]]である」と答えている。また同時に「社会奉仕活動に熱心な偽善者」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。 経歴としては、[[第二次世界大戦]]後[[A級戦犯]]容疑者の指定を受け[[巣鴨プリズン]]に3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。すなわち'''無罪'''である。しかしA級戦犯容疑指定を受けたことが誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことをA級戦犯で有罪となったと信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な[[日記]]を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者およびその家族との書簡は笹川の没後に公表された。 なお第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけ<ref name="正翼の男">佐藤誠三郎『正翼の男』</ref>、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて[[国粋大衆党]]を結成。上記のような一般のイメージに反して、[[太平洋戦争]](大東亜戦争)をはじめとする戦争に日本が進んでいくことに対しては慎重論者であったとともに、[[東條内閣]]の一部の政策に真っ向から反対していたことも知られている。 巣鴨プリズン出所後は、[[モーターボート競走法]]成立に尽力し、[[社団法人]][[日本モーターボート競走会|全国モーターボート競走会連合会]](全モ連)の設立に関与。モーターボート競争の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する[[財団法人]][[日本船舶振興会]]を創設し、国内外で社会奉仕活動に邁進した。[[株式]]取引に長け<ref>姪婿にあたる[[糸山英太郎]]が[[中山製鋼所]]の[[仕手戦]]で苦境に陥った際には、糸山を援助して何とか事態を乗り切ることに成功している、</ref>、個人としては莫大な財力を持っていると見られていたが大半は社会活動に投じていた。 == 来歴 == === 政治活動 === [[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]]豊川村(現・[[箕面市]])に[[造り酒屋]]の長男として生まれる。[[1914年]]([[大正]]3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・[[茨木市立豊川小学校]])高等科卒業、[[作家]]の[[川端康成]]とは[[小学校]]の同級で、[[祖父]]同士が[[囲碁]]仲間であった。[[飛行機]]乗りを志し、陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。 [[1925年]](大正14年)、豊川村の[[市町村議会|村会議員]]に当選して政治活動を始める。[[芸能事務所]]経営を経る傍ら[[株式相場]]にも手を広げて一財産を作り<ref>[[1935年]]、[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]]の買占めでは[[恐喝]]容疑で大阪刑務所に約4年間[[収監]]された(ただし、法廷闘争を経て無罪となり釈放されている)。</ref>、[[飛行機]]や[[飛行場]]を軍に献納して軍人に知己を得た。 [[Image:Yoshiko Kawashima.jpg|thumb|220px|川島芳子]] その一方で弟を通じて[[関西浪人会]]で活動していた[[藤吉男]]を支援、[[1931年]](昭和6年)には[[右翼団体]]・[[国粋大衆党]]を結成し[[総裁]]に就任する。部下に[[児玉誉士夫]]がいたこともある。[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の崇拝者であり、[[イタリア]]の[[ファシスト]]党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。 [[1932年]](昭和7年)に[[満州国]]が建国されると、同国の[[皇帝]]の[[愛新覚羅溥儀]]との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋の[[マタ・ハリ]]」と呼ばれ一世を風靡した[[関東軍]]の[[スパイ]]の[[川島芳子]]との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。 [[1935年]]には党の他の幹部とともに、恐喝容疑で[[逮捕]]。最終的には無罪となるが、4年間の間、[[収監]]される。 [[1939年]](昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の[[山本五十六]]の後援があった<ref>『続・巣鴨日記』26-30ページ</ref>。 [[1942年]](昭和17年)に行われた[[翼賛選挙]]では戦争に対して慎重であり[[東條内閣]]の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に[[重光葵]]や[[岸信介]]、[[安岡正篤]]とも親交があったとされる<ref>『続・巣鴨日記』「解説」</ref>。 [[1945年]](昭和20年)には、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]指令によりA級戦犯容疑者として12月1日に逮捕命令が出て、12月11日に[[巣鴨プリズン]]に入獄したが、実際に[[東京裁判]]の法廷に立つことはなかった。 アメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は[[反共]]のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる[[逆コース]])<ref>この背景には、米ソの[[冷戦]]進行が予想以上に早く進展していたためと推測されている。笹川は、[[東京裁判]]組以外のA級戦犯としては岸信介、[[安倍源基]]、児玉誉士夫らとともに遅くまで収監されていた組であり、方針転換がなければ第2次、第3次あるいはBC級の各裁判で裁かれる予定だった。[[秦郁彦]]『昭和史の謎を追う』下(文春文庫)等も参照のこと。</ref>、[[1948年]](昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、[[1942年]](昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼活動を再開した。 === A級戦犯容疑と「巣鴨日記」 === [[Image:Sugamo Prison.JPG|thumb|220px|巣鴨プリズン]] 笹川は戦争中、戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、東アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「東アジア・太平洋地域に[[植民地]]を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に[[日ソ中立条約]]を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。そのため連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に収監された<ref>山岡荘八によれば「彼は志願してでも、戦犯にならなければならないと決心」(『破天荒』)したと言われ、入獄にあたっては派手に[[軍艦マーチ]]を流すなど敢えて戦犯として入獄することを自ら演出していた</ref>。 ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る<ref>御厨貴『巣鴨日記』解説 p.8</ref>。 笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」、「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」、「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。 この日記によると獄中の笹川は、[[東條英機]]らに対してこの戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、かつ[[昭和天皇]]が戦犯として裁かれることを懸念していたため、開戦の責任は[[天皇]]にはないとはっきり主張せよと説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。 一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという<ref>[[御厨貴]]『表象の戦後人物誌』千倉書房</ref>。 後年になるが、『[[世界 (雑誌)|世界]]』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は[[再軍備]]の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の[[岩波書店]]も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに[[加藤哲太郎]]が筆者と名乗り出た。加藤は[[BC級戦犯]]として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。 === 戦犯者救済活動 === 笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、[[酒]]も[[煙草]]も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者の慰霊に奔走した。[[海外]]で収監されていた戦犯者や「[[三国人]]」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊のために設立された宗教法人[[白蓮社]]、および家族会である[[白菊遺族会]]にも物心両面の協力を続けたとされる。 戦犯者とその家族を支援することは当時としては占領軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する人間はほとんどいなかった<ref>『巣鴨日記』笹川良一</ref><ref name="正翼の男"/><ref>『「戦犯者」を救え 』77ページ</ref>。 笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]編集の元に『「戦犯者」を救え <small>笹川良一と東京裁判2</small>』 として刊行された。 === 競艇 === [[競艇|モーターボート競走]]に関心を持つきっかけとなったのは、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]で手にした『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌にボート写真が載っているのを見たことであったという<ref>それ以前に[[面木公昭]]や[[福島世根]]らによって競艇の構想があり、彼らは[[大野伴睦]]の支援を乞うたが不調に終わっていた</ref>。 出所から2ヶ月も経たない[[1949年]](昭和24年)2月頃から藤や[[矢次一夫]]<ref>矢次も福島と交友関係があり、その縁で福島を笹川に引き合わせている</ref>と計らって[[モーターボート競走法]]制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。競走法は[[参議院]]での否決後での[[衆議院の再議決|衆議院の再可決]]<ref>衆議院側で賛成に回っていた[[日本社会党]]が、参議院への法案上程後に反対に回ったため。このため藤・矢次らは[[広川弘禅]]宅に押しかけて法案の通過を迫っている</ref>など紆余曲折を経て成立したが、競艇の主宰をめぐって笹川・矢次<ref>もっとも草創期には[[足立正]](のち[[日本モーターボート競走会|全国モーターボート競走会連合会]]初代会長)や[[中島久萬吉]]などの財界人を表立って擁立し、笹川らは実務を取り仕切っていた</ref>らの一派と[[大野伴睦]]・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。なお笹川の[[競艇]]創設の栄誉をたたえ、[[スペシャルグレード|SG競走]]の「[[笹川賞競走]]」が毎年[[5月]]に行われている。 [[1952年]](昭和27年)に[[社団法人]][[日本モーターボート競走会|全国モーターボート競走会連合会]](全モ連)の設立に関与、[[1955年]](昭和30年)には同連合会の会長に就任した。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として[[1962年]](昭和37年)に[[日本船舶振興会]](現在の通称は[[日本財団]])を創設し、会長などを務めた<ref>収益を機械工業(特に[[造船業]])振興に振り向ける動きが[[運輸省]]内であり、それに対抗する意味合いもあった。事実、競艇の収益の少なからざる部分が笹川のファミリー企業に流れていると言われるなど、公私混同があるのではないかと言われ問題になっていた{{要出典}}</ref>。その際、日本船舶振興会の[[テレビコマーシャル]]に自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。 なお[[高見山大五郎|高見山]]、[[山本直純]]、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは[[1975年]](昭和50年)から会長を務めた財団法人[[日本防火協会]]のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ[[1976年]](昭和51年)から[[1994年]](平成6年)まで。ちなみに[[1970年代]]後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用心、火の用心』のおじいさん」として認識されている。 === 社会奉仕活動 === 日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動、各種武道・スポーツ団体への協力などさまざまな[[慈善事業]]を推し進めていった。 その中には日本各地に『B&G('''B'''lue sea & '''G'''reen land)海洋センター』名の体育館等のスポーツ施設を整備(設置者は[[ブルーシー・アンド・グリーンランド財団]])したり、[[アフリカ]]における[[緑の革命]]プロジェクトにおいて日本からの[[ODA]]を補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献したり<ref>山本栄一『よみがえれ アフリカの大地-笹川グローバル2000の軌跡』ダイヤモンド社1997年</ref>、[[全日本空手道連盟]]会長や[[少林寺拳法]]世界連合総裁を務めたり、一人一派で流派が乱立していた[[詩吟]]関係の団体を纏め上げて、[[日本吟剣詩舞振興会]]会長を務めたり<ref>笹川の死後は未亡人の[[笹川澄江|澄江]]が会長職を継いだ</ref>、[[宇宙科学博覧会]]協会の総裁を務めるなどの活動があった。 中でも特筆されるのは、[[WHO]]の[[天然痘]]根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、また[[ハンセン病]]患者の救済である。ハンセン病の[[ワクチン]]改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。 振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であった。笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた<ref>加えて前述したように、競艇の収益の少なからざる部分が笹川系の企業に入っていた{{要出典}}</ref>ことは「公私混同」との批判を招くことになった<ref>加えて、[[運輸省]]や[[通商産業省]]からの[[天下り]]による所轄官庁との癒着も批判の理由の一つにもなっている</ref>。 また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって[[財団]]の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。また、一連の社会奉仕活動も莫大な財があってはじめて成し得るものばかりで、その財の出所はというと株式相場で得たものであった。 === 反共産主義の活動 === 笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた<ref>落合信彦は『二人の首領』で[[アメリカ中央情報局]]との繋がりがあると指摘している。</ref>が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役した[[ソ連]]には強い批判を隠さなかった。 [[1954年]](昭和29年)に韓国で発足した[[アジア人民反共同盟]](APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組織であり、[[1966年]](昭和41年)に発足した[[世界反共連盟]](WACL)を韓国の[[李承晩]]や[[中華民国]]の[[蒋介石]]らと共に設立した。 [[世界基督教統一神霊協会|統一協会]]とはある時期まで協力関係にあり、[[1963年]](昭和38年)には、[[世界基督教統一神霊協会|統一協会]]の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。[[世界基督教統一神霊協会|統一協会]]が[[1968年]](昭和43年)に結成した[[反共主義|反共]]の政治団体[[国際勝共連合]]で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、[[文鮮明]]との関係が悪くなったためか、[[1972年]](昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。 笹川は、反共活動や[[日本船舶振興会]]の活動を通じて、長きに渡り「政界の[[フィクサー|黒幕]]」として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた<ref name="正翼の男"/>。 === 中華民国と中華人民共和国との関係 === 笹川自身、反共の立場を取り且つ[[A級戦犯]]容疑者の一人であったにも関わらず、[[1972年]](昭和47年)9月の[[日中国交正常化]]以後は[[競艇]]で得た収益金の一部を、[[中国共産党]]の[[一党独裁]]国家である[[中華人民共和国]]への支援に回すなどしている。このため中華人民共和国での待遇は[[要人|VIP]]待遇だった。 [[1987年]](昭和62年)から始まった中華人民共和国の[[インターン|医学研修生]]を日本の[[大学]]で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ二千人を超える。また、同国と対立する[[中華民国の歴史|中華民国]]の宗教団体である[[世界紅卍字会]]を支援した<ref>笹川の死後は[[深見東州]](学習塾[[みすず学苑]]や宗教団体[[ワールドメイト]]の経営者)が代わって支援している。深見の父・半田利晴は笹川の知遇を得て[[皇族]]の身辺整理などで活躍したことがあり、深見自身も生前から笹川の世話になっていた</ref>。 === タブーと親交 === 生前、「新聞やテレビ、雑誌などの[[マスメディア]]で『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表することは、ある種の[[タブー]]となっていた」と言われてきたが、実際は笹川ほどマスメディアから誹謗、中傷された人物は珍しい。これは[[1960年代]]から[[1990年代]]の各週刊誌を調べれば一目瞭然のことである。 しかし笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、との例えどおり、実力のうえにおいて、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモチのほうが強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。 しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」、「政界の黒幕」、「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。 なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、[[仏教]]系の新興宗教・[[辯天宗]]の信徒総代になっている。また、[[山口組]]三代目[[田岡一雄]]とは酒飲み友達であると公然と話し、[[暴力団]]の仲裁役を務めた。 国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジミー・カーター]]元[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]<!--や[[ロビン・デューク]] 誰?-->、[[ジョン・ロックフェラー]]<ref>『笹川良一研究』はしがき 佐藤誠三郎</ref>等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』の「解説」に詳しい。 === 遺産 === 生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。<ref>笹川『平民心書』</ref>」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年(平成7年)7月18日、[[聖路加国際病院]]で[[心不全|急性心不全]]のため死去。{{享年|1899|5|4|1995|7|18}}。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円。相続税約7億5千万円で相続人中長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男の笹川陽平は、返済に苦労することになった<ref name="正翼の男"/>。 == 栄典 == * 勲一等修交勲章光化章(韓国、1976年) * 大綬景星勲章(中華民国、1977年) * [[勲一等瑞宝章]](1978年) * [[国連平和賞]](1982年) * ヘレン・ケラー国際賞(1983年) * ライナス・ポーリング人道主義章(1983年) * マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年) * [[ガンディー平和賞 (マハトマ・ガンディー民衆福祉財団)|マハトマ・ガンジー世界平和賞]](1987年)<ref>本章の受賞は日本人では最初の受賞であり、[[ドクター中松]](1993年)、[[池田大作]](1995年) 、[[福永法源]](1995年)がこれに続いている。</ref> * [[勲一等旭日大綬章]](1987年) * 白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ王国、1989年) * 大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ、1989年) * 大勲位ボルタ章(ガーナ、1989年) * [[芸術文化勲章]](フランス、1993年) など、その他多数受章 == 親類 == * [[笹川勝正]](長男) * [[笹川堯]](次男 - [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]元・[[衆議院議員]]) * [[笹川陽平]](三男 - [[日本船舶振興会]](通称「[[日本財団]]」)会長・[[社団法人]][[日本モーターボート競走会|全国モーターボート競走会連合会]]名誉会長) * [[笹川博義]](尭の三男) * [[笹川貴生]](陽平の長男 - かつて[[NTTドコモ]]に勤務し、[[松永真理]]が率いていた[[i-mode]]の開発チームに在籍していた<ref>[[松永真理]]『iモード事件』[[角川書店]] 2000年</ref>現在、[[岩井証券]]取締役)<!--なお、「笹川良一の子供は星の数ほどいる」と本人が公言している通りに、隠し子がたくさんいると思われる。--><!--風評につきコメントアウト。再掲載希望の場合はノートで確かな情報源をご提示ください。2ちゃんねるやブログ、個人サイトなどは出典とするにはたりません--> == 孝養の像 == [[Image:Kohyo_no_zou.jpg|thumb|right|250px|笹川良一・孝子像([[笹川記念会館]])]] [[笹川記念会館]]、[[箕面市]]箕面及び全国の[[競艇場]]、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。何故か[[日本財団]]ビルにはない。これは、笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って[[香川県]][[仲多度郡]][[琴平町]]・[[金刀比羅宮|金毘羅]]参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。 * 「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」 * 「世界は一家、人類は皆兄弟」 との碑文が刻まれている。 なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。 == 映画出演 == * 『フライング 飛翔』 [[映画監督|監督]]・[[脚本]]・[[曽根中生]]、[[企画]]・[[横山やすし]]、 [[東映]]=東映クラシックフィルム 1988年 (連合会会長の役として) == 参考図書・関連文献 == === 著書 === * 『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年 * 桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年 * 『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月 * 『人類みな兄弟』 [[講談社]]、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4 === 笹川良一研究 === 1995年に笹川が没したあと、生前は一切公開されていなかった巣鴨の獄中日記や、戦犯家族らとの書簡が研究者の手で編纂され刊行され始め、それまで知られることの無かった笹川の一面に光があたるようになった。まず1997年に伊藤隆と渡邊昭の校訂による『巣鴨日記』が刊行される。これに触発された佐藤誠三郎が1998年に『笹川良一研究 異次元からの使者』、1999年に『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』を相次いで上梓するが、翌年逝去。そのあと、伊藤隆は笹川の息子陽平の協力を得て笹川良一関係文書を整理し、東京裁判を中心とする3部作『続・巣鴨日記 <small>笹川良一と東京裁判1</small>』『「戦犯者」を救え <small>笹川良一と東京裁判2</small>』『容疑・逮捕・訊問 <small>笹川良一と東京裁判3</small>』を刊行。これら一連の文献は、笹川良一関連文書をまとめたものであると同時に、笹川をとおして東京裁判とはどういうものだったのかを追う研究でもある。伊藤自身は、先の3冊に続くものと位置づけて、この6巻分をまとめた人名総索引を『容疑・逮捕・訊問 』の最後に置いている<ref>『容疑・逮捕・訊問 』「あとがき」459-461頁</ref>。 <!--学術的論評--> * [[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]・渡邊明・校訂『巣鴨日記』 [[中央公論新社|中央公論社]] 1997年2月 ISBN 4-12-002650-7 * [[佐藤誠三郎]] 『笹川良一研究 異次元からの使者』 中央公論社 1998年 ISBN 4120028178 * [[佐藤誠三郎]] 『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』 中央公論新社 1999年 ISBN 4120028992 * 伊藤隆 編『続・巣鴨日記 <small>笹川良一と東京裁判1</small>』 中央公論新社 2007年12月 ISBN 978-4-12-003900-3 * 伊藤隆 編『「戦犯者」を救え <small>笹川良一と東京裁判2</small>』 中央公論新社 2008年8月 ISBN 978-4-12-003968-3 「戦犯者」とその家族の笹川宛書簡288通を収録 * 伊藤隆 編『容疑・逮捕・訊問 <small>笹川良一と東京裁判3</small>』 中央公論新社 2008年12月 ISBN 978-4-12-003994-2 === その他 === <!--好意的的論評--> *[[山岡荘八]]『破天荒 人間笹川良一』 有朋社 1978年 *[[塩田道夫]]『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』 [[日本文芸社]] 1988年 ISBN 4537021144 (巣鴨プリズンにおける戦犯らの姿を笹川良一中心に描く) *[[黒瀬昇次郎]]『笹川良一伝 世のため人のために』 到知出版社 2001年 ISBN 4884746112 *[[神山榮一]]『颯爽たる人生 笹川良一』 産経新聞ニュースサービス 2001年 ISBN 4594031404 (元側近による笹川の素顔) <!--批判的論調--> *[[鎌田慧]]『笹川良一の真相』 (『ルポ 権力者』[[講談社文庫]] 1993年 ISBN 978-4061855045 に所収) *[[落合信彦]]『二人の首領』 [[集英社文庫]] 1988年 ISBN 978-4087493726 *[[別冊宝島]]編集部『「カルト」の正体』 [[宝島社文庫]] 1999年12月 ISBN 4796616853 (元[[統一教会]]の幹部、[[西川勝]]のインタビューに笹川とのエピソードがある。) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[笹川スポーツ財団]] *[[ヤマト発動機]] *[[日本トーター]] *[[オペレーションサービス]] == 外部リンク == * [http://www.sasakawahall.jp 笹川記念会館] * [http://nippon.zaidan.info/kinenkan/history40/introduction/004.html 日本財団四十年の歩み 会長の交代] * [http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/ 水野心ブログ(フリージャーナリスト)] {{DEFAULTSORT:ささかわ りよういち}} [[Category:衆議院議員 (帝国議会)]] [[Category:日本の政治運動家]] [[Category:日本の社会運動家]] [[Category:日本の右翼活動家]] [[Category:冷戦に関わった人物]] [[Category:競艇]] [[Category:A級戦犯容疑者]] [[Category:大阪府の政治家]] [[Category:箕面市]] [[Category:1899年生]] [[Category:1995年没]] [[Category:マハトマ・ガンディー世界平和賞の受賞者]]