運慶

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運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した仏師である。日本の歴史上最も高名な仏師である。現存作は三十数点とされている。平安後期の大仏師である定朝以来の流麗で抑制された造形の規範から、写実的で量感のある力強い像に転換させた。

経歴[編集]

平安時代末期の仏師である師康慶の子として生まれた。生年は不明であるが、1150年頃とみられる。その理由は20歳代半ばに製作したとみられる円成寺大日如来座像が安元二年(1176年)に製作されているからである。治承4年(1180年)には平家による奈良の東大寺・興福寺の焼き討ちにより像が滅失したため、興福寺の再興造像を円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担して製作することになり、奈良仏師は運慶の父である康慶が興福寺南円堂の造仏を担当し、運慶も加わった。文治二年(1186年)頃からは鎌倉幕府から依頼された仕事を開始し、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像の製作を開始した。

作風[編集]

平安時代には定朝様という様式が完成されていた。これは平安時代の仏師である定朝が創始した和様の仏像彫刻様式である。11世紀から12世紀まで仏像の規範となった。柔らかな曲線、浅い彫り、流麗な衣文により柔和で優美な造形である。仏像の個性を排している。平安貴族の好みにマッチし、「尊容満月のごとし」と評された。しかし新しい様式を生み出す創造性と活力が失われていた。 これに対して運慶は、表情や着衣の表現の写実性、衣紋の彫りが深く、男性的な仏像を生み出した。新しい様式を打ち立てた天才的で革新的な仏師と評される。

作品[編集]

大日如来坐像 安元二年(1176年) 国宝

木造漆泊、玉眼、像高98.8。奈良 円成寺。

現存する運慶の作品のうち、最も早い二十台半ばの作品である。台座の部材の裏側に書かれた墨書に、安元元年(1175年)11月24日に製作を開始し、翌年安元二年(1176年)101月に完成したことが記されている。銘の最後に大仏師康慶実弟子運慶の署名と花押が記されている。像高100cm弱の像では、通常3ヵ月前後で製作されるので、1年近くかけて製作したことは珍しい。平安時代の作風の名残も見られるが、運慶の空間把握能力、人体表現など独自のダイナミックな表現がみられる。 大日如来は密教における根本仏である。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」との意味である。

銘文
運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也
已上御身料也
奉渡安元弐年丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶(花押)

毘沙門天立像 文治二年(1186年) 国宝

木造、彩色、玉眼。像高148.2。静岡 願成就院。

五輪塔形銘札に銘に文治二年(1186年)5月3日に像造を開始したと書かれている。運慶の東国における最初の造像である。奈良時代の神将形像の様式を取り入れつつ、腰をひねり、右手を高い位置に上げる姿や顔立ちに新しい創造性を実現した。二匹の邪鬼を踏みつけ、玉眼の眼光鋭く、引き締まった肉体は躍動感、緊張感にあふれている。

八大童子立像 建久八年(1197年)頃 国宝

木造、彩色、戴金、玉眼、 和歌山 金剛峯寺。

高野山一心院谷にあった不動堂に安置されていたが、現在は壇上伽藍に移設されている。 製作年代は、建久八年に行勝上人が一心院を建て、本堂に不動明王像、八大童子像を安置したと同時代資料の『五坊寂静院文書』明記されている。 壮年期の運慶が製作した、現存する像の一つとして重要である。『秘要法品』に記されている図像に基づきながら、ボリュームのある肉づき、軽快な動作、微妙な表情などが巧みに表現されている。